毘沙門堂

米沢市にある塩野毘沙門堂の事が中心

毘龍水

毘沙門堂境内には弁天池がある。

その満々たる池に映し出される毘沙門堂の姿は非常に美しいもので、その景観が楽しまれている。

その弁天池に豊富な水を注ぎ続けているのが、「毘龍水」(びりゅうすい)

塩野毘沙門堂の最大の特徴である須弥壇下の井戸と毘龍水の水源は同じものと考えられ霊験あらたかとされている。

 

f:id:bisyamonnsama:20170817175509j:plain

 

 

毘龍水を伝える口伝がある。

ご本尊鎮座します床下に古より垣間見ること禁断の聖なる井戸あり。

世に異変難事起こりし時、ご本尊自らこの井戸に身を投じて沈めこれを救い給う。

又、この井戸には大いなる白蛇住み居り信仰厚き善男善女の身に災い起こりし時、龍となって霊を呼び竜巻をおこして昇天霊念力を以てこれを救い給う。

 

f:id:bisyamonnsama:20190926150014j:plain

 

毘沙門堂境内にある弁天堂

塩野毘沙門堂境内には大きな池がある。毘沙門堂の地下水が注ぐ清水は新緑の毘沙門堂の姿を美しく映し出して参拝者を迎えてくれる。

この池の名前が「弁天池」。

仁王門を潜り左に弁天池を見ながら、その左には小さな見世棚造り。間口奥行き共に四尺の小さなお堂がある。

これが弁天堂。昭和の初め頃まではこの弁天堂を囲むようにお堂の裏側にも池があった。塩野毘沙門堂を描いた古絵図(元禄時代)にはその池が確認できる。

 

 

 

f:id:bisyamonnsama:20190926145957j:plain

f:id:bisyamonnsama:20140817182005j:plain

弁天堂のご本尊は言わずと知れた「弁天様」だ。

珍しいことにその姿は優美な弁天様とは違い蛇頭弁財天だと伝えられている。

昔はこの弁天堂に蛇の絵を描いて病気平癒を祈願したと言われている。

 

そんな弁天堂であるが創建された時代は不明

推測に過ぎないが鎌倉期からあった可能性がある。しかし創建当時の建造物では無く

幾度も風雪によって壊れ幾度も修復再建を繰り返してきた堂である事は間違いない。

平成になってからも風雪被害によって倒れ掛かったお堂が倒壊しないように周りから

材木で支えていたが、この度、礎石をずらし新たにコンクリートの土台をしいてお堂自体を支える床柱を鉄筋にて補強し一新した。

 

他の文化財等も同じことが言えるが

塩野毘沙門堂においても厳しい風雪に傷んでいく堂宇を守る事は並みならぬ地域の人々の支援と心が必要だと感じるものである。

 

 #米沢 #毘沙門天 #弁財天 #上杉 #伊達 #秘仏

塩野毘沙門堂の鳥居跡

日本には、かつて神仏混合の思想があった。神仏混合とは神祇と仏教の融合であり、本地垂迹説など様々な形で神と仏が長い間、共に共存してきたのである。山形県では特に出羽三山が有名で羽黒山に至っては山頂にある合祭殿(本殿)に観世音菩薩(羽黒)阿弥陀如来(月山)大日如来(湯殿)の三仏が祀られtてきた。その他、五重塔には軍荼利明王妙見菩薩や他諸堂にも数多くの仏像が祀られ祭祀されてきた。

 

ここ、塩野毘沙門堂も例外ではないかも知れない。

古くから信仰され、時の藩主からも厚い保護を受けた塩井の総鎮守とされる福徳毘沙門天

下の写真は神域を表す鳥居の跡である。

f:id:bisyamonnsama:20170817175639j:plain

 

仁王門へ至る参道入ってすぐ左右に見つける事が出来る。大鳥居とまで行かないが確かに鳥居があった事が確認できる。

いつの時代から鳥居があったのかまったく不明であるが、同様の跡はこの近くの薬師堂でも確認できた。

塩野毘沙門堂を描いた最も古いもので「米陽八景・宮井の夜雨」元禄時代毘沙門堂が描かれている。また寛政七年に描かれた「黒井堰絵図」においてはしっかり鳥居が描かれている。 江戸時代には確かに誰かが寄進した鳥居があった事が伺える。

 

しかし何処の地域も同じ神仏分離令廃仏毀釈の荒波はこの塩井にも吹いたのであろう。その鳥居は台座石を残して忽然と姿を消したのである。

この事を深く記録し後世に伝えて行かなくてはならない。

神仏混合の名残であろうか仏堂としては珍しく神輿渡御が毎年行われている。

そこに当時の名残りを感じずにはいられない。

毘沙門天の梵字

毘沙門天梵字サンスクリット語梵字)の「ベイ」である。

ここ塩野毘沙門堂も同様であるが、奉納されている梵字を見てみると実に珍しい梵字を見る事が出来る。

 

この軸はいつ頃のものか定かではないものの毘沙門天を祀る祭壇の頭上に掛けてあったものだ。

f:id:bisyamonnsama:20150513211708p:plain

 

 

そして、こちらは毘沙門天を祀る厨子上部に取り付けられていた板碑。

 

f:id:bisyamonnsama:20150501200126p:plain

 

現在は修復時にか取り外され御宝前に置いてある。(写真左花瓶の隣)

f:id:bisyamonnsama:20140817182726j:plain

 

奉納されたのは江戸時代の元禄十五年との事。

この板碑は「米沢の神社・堂宮 8 塩井地区」に詳しく詳細が乗っている。

但し、詳細の部分で「種字は不動明王を表すカンマンか。」とあるが、

毘沙門天の御真言である「ベイシラマンダヤ」と書かれているのが正しい。

不動明王を表す流れカンマンという種字に似ている為、間違いやすい。

 

ちなみに毘沙門天のご真言は「おん べいしらまんだや そわか」である。

 

 

 

毘沙門堂の絵馬

 

塩野毘沙門堂には、あまり古い物は見当たらないが、数点の絵馬が確認できる。

最も古い絵馬では「曳馬の図」で寛文5年(1665)の奉納の絵馬である。

f:id:bisyamonnsama:20140817182500j:plain

 

この時より明治時代に至るまでの間、多くの絵馬が奉納されている。

 

f:id:bisyamonnsama:20140817182241j:plain

f:id:bisyamonnsama:20140817182247j:plain

f:id:bisyamonnsama:20140817182449j:plain

 

この絵馬は今でこそ堂内に飾られているが、一昔前までは拝殿長押にに飾られ、

参拝者はお目当ての絵馬に紙つぶてを飛ばし、それを当てて願掛けをしたとも伝えられている。

 

f:id:bisyamonnsama:20140817182927j:plain

 

毘沙門堂に伝わる絵馬は殆ど大絵馬でその中に百足の絵馬がある。

百足は毘沙門天のお使いとされていることから、奉納されたものと考えられる。

この絵馬は百足が荒波を逆上しているダイナミックな絵馬である。

 

絵馬に関しては平成のこの時代になって久しく奉納を見なくなったのは残念である。

絵馬は神仏に馬を奉納した事に由来するが絵にしたためて奉納された馬が、形を変えて夫人参詣の図や祈祷図などバラエティーにとんでいるのはまた面白い。

その時々の人々の切実な願いが絵に表されているのかも知れない。

 

この絵馬の内 数点は山形県立博物館発行の「山形の絵馬」にも収録されている。

 

 

 

 

 

消えた棟札

塩野毘沙門堂の創建は大同4年(809)という大変古い由緒がある。

しかしあくまで伝説・口伝の域を出ないのは残念なことです。米沢市に現在伝わる古刹には毘沙門堂のように大同年間創建とされる場所が数か所あるが、毘沙門堂同様なんらかの理由で古記録を失っている。

 

塩野毘沙門堂に関して言えば大同の創建から数えて600年を経た長享2年(1488)の室町時代に火災に遭い本尊を含め古記録など全て焼失したと伝えられる。それから2年後の延徳2年(1490)伊達尚宗によって再建されたのが現在の毘沙門堂だと伝えられている。

「塩井郷土史」によれば

「今の御堂は焼け残った材木を使用して建立したもので、当初の御堂より規模も小さくなり、太い棒の支柱が各所で継がれているのはその為と言われている」地元口碑

 

確かに毘沙門堂内部を見ると確かにその感がある。無論、どこら辺が大同年間の木材かはわからないし、こうしたお堂は、使える木材を利用して継ぎ足していく工法も実際にあり、幾度かの修復の中で継ぎ足された部分が見えるのかも知れない。

 

そこで棟札である。

f:id:bisyamonnsama:20140817182939j:plain

 

毘沙門堂に伝えられる棟札は最も古いもので、嘉永4年(1851)江戸時代

米沢12代藩主の上杉 斉憲の毘沙門堂修繕という棟札が現在見つかっている最古のものだという。

毘沙門堂の境内にある仁王門には嘉永年間以前の享保18年(1733)米沢6代藩主の上杉宗憲建立(力士門建立)棟札が残されている。

口伝等には忠臣蔵などで有名な米沢4代藩主の上杉綱憲が大修繕していると伝えるが棟札が何故か存在していない。

棟札が見当たらないのは事実だが、この頃に描かれたとされる元禄時代の絵図(米陽八景・宮井の夜雨)には毘沙門堂が大きく描かれており、当時から厚い信仰の場であったことが伺われる。

f:id:bisyamonnsama:20140817182952j:plain

延徳2年再建から数えても500年以上経つ毘沙門堂に最低100年に一度の修復をしたとしても5枚の棟札があってしかるべきなのだ。

何故、棟札が消えてしまったのか。

あるいは発見に至っていないのか。

今後の調査に期待するしかなさそうだ。

 

米沢城と塩野毘沙門堂

米沢という場所は上杉の城下町として知られている。

上杉氏が入る以前は蒲生氏ー伊達氏ー長井氏と遡って行きこの長井氏がこの付近を統治していた鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)頃、米沢城(館か・・)が築城されたと伝えられているのが通説。

f:id:bisyamonnsama:20140616113927j:plain

しかし、この通説と塩野毘沙門堂を照らし合わせた時、ある疑問が生じた。

毘沙門天の祭祀は古くから王城鎮護の為に行われてきた経緯がある。毘沙門天が祀られる場所の殆どが、北方あるいは鬼門(東北)に位置するのだ。

これは毘沙門天が北方の守護神であるからという理由である。

塩野毘沙門堂も例外ではないと考えられる。毘沙門天は戦の神。その時代に毘沙門天の力が必要な状態であった事は言うまでもない。

塩野毘沙門堂の創建が大同年間~承和年間と言われているが、平安時代初期の東北は蝦夷と都の軍勢が争った時代でもある。

そんな時代に塩野毘沙門堂は完成したと考えるが、ここで米沢城と塩野毘沙門堂の位置関係が不思議に思えてきた。

米沢城の位置が毘沙門堂の南なのである。

逆に言えば米沢城のはるか北に毘沙門堂があるのだ。そう考えた時、米沢城が創建された時代は城で無かった事にしても平安初期には米沢城の位置に権力者の館か何かがあったのではないかと考えられる。

それから時を経て鎌倉時代に米沢城がその場所に造られたと考えてもなんの不思議もない。

無論これは想像の域を出ない話しなのだが。

この米沢という地は平安時代創建と伝えられる寺社(笹野館音堂・白子神社など)は少なからずあるのも事実。歴史のロマンを感じずにはいられない。