毘沙門堂

米沢市にある塩野毘沙門堂の事が中心

本尊毘沙門天開眼僧の謎

法相宗の徳一上人と天台宗の安然大師

塩野毘沙門堂の由来は大同四年(809)徳一上人が行脚の途中この地に立ち寄り霊夢を見て多聞天尊像を一刀三礼にて刻み小堂に納めた。というのが通説になっている。

徳一上人は奈良仏教を基盤に会津地方を中心として活躍した名僧で磐梯山の麓に慧日寺を建立した事でも知られ、日本三大虚空蔵の一つ柳津虚空蔵尊も徳一上人開基だと云わる。

塩野毘沙門堂のある置賜地方にも亀岡文殊堂や笹野観音堂など数多くの徳一開基と伝わる寺院があるが、何れも伝説の域を出ないのが事実である。当の徳一上人に関する資料も実際少なく、天台宗最澄真言宗空海側からの資料の位置づけによって徳一上人を確認する事が出来るが、同時代を生きた名僧である空海最澄と比べると資料が少ないのが現状である。また、徳一上人は置賜地方に足を踏み入れていないとする郷土史家もいる事から塩野毘沙門堂の開基が何故に徳一上人とされたのか謎が残る。或は徳一上人の命を受けた法相宗の弟子たちによって開基されたとも考えられる。

 

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そして塩野毘沙門堂にはもう一人の開基僧が伝わる。

それが天台宗の安然説。

安然は比叡山を開いた伝教大師最澄の弟子の慈覚大師円仁に従い、教えを学び天台密教を完成させた人物。

そのような僧が何故に塩野毘沙門堂開基に関わったのか。

実は塩野毘沙門堂別当である般若山吉祥院延徳寺に伝承されているのは徳一上人説のみであるが、塩野(塩井)地域の口伝では徳一説よりも安然説の方が強い。

 

口伝の一つ「その昔、安然(阿覺大師)が塩野に来たり。農家に宿を借りて毘沙門天を開眼し後に小関藤左ヱ門家に止まる。その後、時沢(高畠)にて没す。」と伝えている。

時沢に関しては塩野毘沙門堂口伝とは別に大師森石窟という場所が現在に伝えられており、ここが安然大師入定窟だと地元の伝承にある。この石窟からは後に石棺と密教法具などが出土してる。

さらに言えばこの大師森石窟にて安然大師一千年祭が行われた時には毘沙門堂の口伝を立証するかのように小関藤左ヱ門の家の者が参列し、供養塔の上層部にその名を刻んだと云う。

慈覚大師円仁の足跡を巡錫した安然は、山寺で有名な宝珠山立石寺の第二世とされてもいる。この立石寺には慈覚大師円仁の入定窟が伝わっており、山寺を去るに当たって入定窟の真下に当たる岸壁に自らの像を刻んだと伝えられている。後に安然は、延喜十五年2月15日、郷里の時沢の巌谷に入定したと云う。

安然は阿覚大師として又、比叡山に五大院を建立したことから五大院安然とも称される。

塩野の口伝には無いが、安然大師を知れべている間に気になる人物を見つけたのでここに記す。天台宗比叡山)第四世座主の安慧という僧も慈覚大師円仁の弟子である。安慧は出羽国の教化にあたり、この地に多くいた法相宗の徒を天台宗に改宗させたと云う。また、山寺立石寺根本中堂に毘沙門天像が祀られている。近年の調査でこの毘沙門天像は9世紀(平安初期)の像である事が確認された。

現在の塩野毘沙門堂には創建時の毘沙門天像が無いが、この像が、安然により開眼さていた像ならば、塩野の像も近い姿をしていたのかも知れない。

 

 

 

塩野毘沙門堂

塩野毘沙門堂

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山形県米沢市塩井町塩野字安念地内に鎮座しているのが福徳毘沙門天を本尊として祀る塩野毘沙門堂

伝承縁起によれば大同四年(809)会津の名僧 徳一上人が諸国行脚の途中、この地に立ち寄り、一刀三礼の毘沙門天像を刻み小堂に安置したのが始まりと云う。

時を経て承和三年(837)出羽国守の小野良実が飛騨の大工を呼んで大きなお堂を建立。その後、この地を支配した長井氏・伊達氏の崇敬を受け祭祀を行ってきたが、創建から六百年余を経た長享二年(1488)火災が発生し本尊・記録・堂宇の全てが焼失した。2年後の延徳二年(1490)当地を支配していた伊達尚宗によって再建され、江戸時代には上杉氏の崇敬を受けて四代藩主上杉綱紀と十二代藩主上杉 斉憲によっても大修理が施された。大がかりな修復はこのあと大正時代にも行われており、伊達尚宗が再建した毘沙門堂の姿を今に伝えている。