米沢城と塩野毘沙門堂
米沢という場所は上杉の城下町として知られている。
上杉氏が入る以前は蒲生氏ー伊達氏ー長井氏と遡って行きこの長井氏がこの付近を統治していた鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)頃、米沢城(館か・・)が築城されたと伝えられているのが通説。
しかし、この通説と塩野毘沙門堂を照らし合わせた時、ある疑問が生じた。
毘沙門天の祭祀は古くから王城鎮護の為に行われてきた経緯がある。毘沙門天が祀られる場所の殆どが、北方あるいは鬼門(東北)に位置するのだ。
これは毘沙門天が北方の守護神であるからという理由である。
塩野毘沙門堂も例外ではないと考えられる。毘沙門天は戦の神。その時代に毘沙門天の力が必要な状態であった事は言うまでもない。
塩野毘沙門堂の創建が大同年間~承和年間と言われているが、平安時代初期の東北は蝦夷と都の軍勢が争った時代でもある。
そんな時代に塩野毘沙門堂は完成したと考えるが、ここで米沢城と塩野毘沙門堂の位置関係が不思議に思えてきた。
米沢城の位置が毘沙門堂の南なのである。
逆に言えば米沢城のはるか北に毘沙門堂があるのだ。そう考えた時、米沢城が創建された時代は城で無かった事にしても平安初期には米沢城の位置に権力者の館か何かがあったのではないかと考えられる。
それから時を経て鎌倉時代に米沢城がその場所に造られたと考えてもなんの不思議もない。
無論これは想像の域を出ない話しなのだが。
この米沢という地は平安時代創建と伝えられる寺社(笹野館音堂・白子神社など)は少なからずあるのも事実。歴史のロマンを感じずにはいられない。