消えた棟札
塩野毘沙門堂の創建は大同4年(809)という大変古い由緒がある。
しかしあくまで伝説・口伝の域を出ないのは残念なことです。米沢市に現在伝わる古刹には毘沙門堂のように大同年間創建とされる場所が数か所あるが、毘沙門堂同様なんらかの理由で古記録を失っている。
塩野毘沙門堂に関して言えば大同の創建から数えて600年を経た長享2年(1488)の室町時代に火災に遭い本尊を含め古記録など全て焼失したと伝えられる。それから2年後の延徳2年(1490)伊達尚宗によって再建されたのが現在の毘沙門堂だと伝えられている。
「塩井郷土史」によれば
「今の御堂は焼け残った材木を使用して建立したもので、当初の御堂より規模も小さくなり、太い棒の支柱が各所で継がれているのはその為と言われている」地元口碑
確かに毘沙門堂内部を見ると確かにその感がある。無論、どこら辺が大同年間の木材かはわからないし、こうしたお堂は、使える木材を利用して継ぎ足していく工法も実際にあり、幾度かの修復の中で継ぎ足された部分が見えるのかも知れない。
そこで棟札である。
毘沙門堂に伝えられる棟札は最も古いもので、嘉永4年(1851)江戸時代
米沢12代藩主の上杉 斉憲の毘沙門堂修繕という棟札が現在見つかっている最古のものだという。
毘沙門堂の境内にある仁王門には嘉永年間以前の享保18年(1733)米沢6代藩主の上杉宗憲建立(力士門建立)棟札が残されている。
口伝等には忠臣蔵などで有名な米沢4代藩主の上杉綱憲が大修繕していると伝えるが棟札が何故か存在していない。
棟札が見当たらないのは事実だが、この頃に描かれたとされる元禄時代の絵図(米陽八景・宮井の夜雨)には毘沙門堂が大きく描かれており、当時から厚い信仰の場であったことが伺われる。
延徳2年再建から数えても500年以上経つ毘沙門堂に最低100年に一度の修復をしたとしても5枚の棟札があってしかるべきなのだ。
何故、棟札が消えてしまったのか。
あるいは発見に至っていないのか。
今後の調査に期待するしかなさそうだ。